【音楽エッセイ】音楽の存在意義〜悲観し傍観するのでは哀しい〜

 

今月号の神戸っ子連載記事です。

 

 

 


 

新年明けましておめでとうございます。

2016年1月号から始まったこの連載も残すところ、

あと3回となりました。近年の時代の流れは、昔と異なり激動です。

昨年記した人工知能然り、

私たちの生活に直結する社会保障制度、

国際問題。取り上げだすとキリがない。

そしてその殆どが不穏で不安な気持ちを抱かせる内容ばかり。

人生100年時代と叫ばれる今、心配を抱えて生きていくのでは哀しい。

私だってあと60年も生きなくてはいけない。

考えただけでも気が遠くなる。
 

昨年、人生のターニングポイントと言われていた40歳を迎え、

一つの疑問が私の頭から離れなくなった。

「音楽の存在意義ってなんだろう」。
 

特に、クラシック音楽家というと、

今の時代でさえ悲しいかな《お金持ちの趣味》と捉えられることが多い。

しかし、これは当人にも原因があり、やり方が昔と変わらず古典的だからだ。

最近は少しずつ活動内容に変化が見られるが、

それでもその認識はなかなか払拭出来ない。

悔しい。

話は少し逸れるが、もしこの世から音楽が消えたら・・。

想像して欲しい。

それはそれは味気ないものになるだろう。

テレビやラジオ、駅のホームでさえ音楽は流れている。

私たちは音楽の中で生活している。

実はこんなにも必要不可欠な音楽なのに、

何故クラシック音楽家は日の目を見ることが少ないのだろう。

悲観し、ただ傍観しているのは悔しいので日々思考している。


私の理想は、音楽により歓喜を与え、純粋に楽しみ、悲しみに寄り添う、

時には問題提起を音楽で表現したい。

一方通行や俯瞰な音楽ではダメだ。

先が見えない不安な昨今だからこそ、

一時的でも音楽に救われたと言って頂きたい。

だから私は作曲し、映像を作る。

音楽だけでは表現力が弱い。

それに気づき【映像と音楽】という視覚からも「音」を楽しめるインスタレーションを制作している。

ただ、これが答えではない。

しかし、もしこれで一人でも多くの人に悦楽を感じて貰えたら。

それがこの連載の表題通り、本当の「音楽の力」だろう。